月別アーカイブ: 2015年2月

Feb. 28

あなたは何が欲しいのですか?

本当に欲しいものは何なのですか?

お金ですか?

愛情ですか?

希望ですか?

夢ですか?

私があなたの心を買えないように、あなたも私の心を買うことはできません。

お金は生活する上では大切なものです。

でも、それ以上に私はお金で買えないものを大切にしているのです。

Feb. 27

6年。
早い。
世の中のため、組織のために自分は一体何ができるのだろう。

喜んでくれる人がいるととても嬉しい。
小さな発見があると感動する。

そんなことを独り考える。

Feb. 26

春が近づいている。
夜明けが早くなってきた。
早朝の空はとてもきれいだ。
2月末から月の近くに金星と火星が接近しているそうだ。
子供のころ、星座の本を買ってもらってギリシャ神話とかよく読んだ。

昔の人は今のような娯楽はなかったわけだから、夜空を眺めてはいろんなことを語りあったのだろう。

同じ時に同じ星を見つめている人は何人いるのだろう。

Feb. 23

昨日、スーパーに買い物に行ったら養護学校の展示販売を行っていた。
誰だって一度は目にしたことがあるだろう。
陶芸や手芸、木工などが定番。
生徒や先生たちの様子を遠巻きに観察。
障害児教育に携わって現在の職に就いている自分は厳しい視線で見てしまう。
単刀直入に言うと教育機関としての体をなしていない。
悪い言い方をすれば、託児所である。
製品は力作なのであろうが、同情を買うような商売をしている。
お涙ちょうだい的な社会とのつながり。
こんなことを言うと、先生方からは批判の嵐になるだろう。

なぜ、こんな言い方をするのか。
人間として生まれてきた以上、みんな平等である。
少なくとも自分はそう思っている。
男だろうが女だろうが、健常者だろうが障害者だろうが・・・。
だが、実際には世の中は平等ではない。
そもそも世の中というのは理不尽なものなのだ。
それを解った上で、乗り越えていくことに人生の面白さがある。
誰かのせいにしたり、社会の批判ばかりしても先には進むことはできないですから。

養護学校の先生の多くは意識レベルが低い。
製品を売るからには
「これって障害を持った子たちが作った製品なの?」とか
「ここはどこのお店の催しものだ?」
と思われるレベルを目指してほしい。
24時間テレビ的な「みんなオンリーワン」みたいなやり方が嫌いなのです。

障害を持った人だって権利があるのだから、きちんと主張してほしい。
自分は偏見のある人たちに彼らの存在と主張を認めさせたい。
そう強く思っている。
そのためには・・・。
高い目標を持って取り組むのです。
「結果を出さなくてはならない」という意識を持つんです。
「出さなくては」というより「出させなくては」ならないのです。
製品を買っていく人が哀れみの気持ちが介入しているようではいかんのです。
先生たちはそれに甘んじていてはいかんのです。
製品が売れなくても自分の職がなくなるわけじゃないから工夫がない。
生徒が就労できなくても責任を問われないからチャレンジしない。
そういう風に見えます。
「生徒は頑張っています!」
それはそのとおりでしょう。
でも、頑張る方向が違いませんか?
物を買ってもらうという視点が欠如していませんか?
売るための工夫をしていますか?
「これは教育の一環ですから・・・」という逃げ道なんて作っていては進歩はあり得ません。

「我が社の社員もそれくらいの意識はあります!」
と思いたい・・・。

応援したい。
それが本音です。
一緒に取り組めるものがあるのに。
歩み寄ってくれる人が現れないと何もできないのか。
ため息をつきながら、データ処理に追われる。

こんなイベントは必要なのだろうか

二分の一成人式なるものが流行っているそうだ。
親たちは感動に包まれているとのこと。

自分は違和感を感じている。
みんな、感動に飢えているのか。
尽くしているから感謝されたいと思っているのか。
精神的な部分が荒んでいるからこのようなイベントが盛り上がるのではなかろうか。
荒んでいるというのは言い過ぎかもしれないけど、人間関係が希薄になっている証拠ではないだろうか。

日本の学校は行事が多すぎである。
先生たちはやるのが当たり前になっていて、やらないという選択肢を持たない。
行事がなくたって生徒が学び成長する方法はあるはず。
でも、やった方が前例を踏襲するだけだから楽だし、イベントがあると何となく盛り上がった気持ちになる。
親たちも自分たちが経験してきたことを違う立場で味わいたくて感動を得たがる。
本来やるべきことがたくさんあるのに、何となく誤魔化されている気がしてならない。

工夫を凝らして演出してくれるのはありがたいけど、感動させようさせようという押し売りが興ざめなのです。
何かしらの行事がないと感動がない。伝える機会がない。場がない。
そういうことなのではないだろうか。
たとえばバレンタインデーに義理チョコを贈る。
「感謝の気持ちを伝えたい。」
「仕事上の人間関係を円滑にしたい。」
理由は様々なのだろうが、イベントを利用しないと何もできないということに疑問。
普段から感謝の気持ちを伝えていれば。
いつも相談・連絡をしていれば。
ちょっとした気遣いを心がけていれば、誰かが何かしてくれなくてもうまくいくでしょう。
いったい誰がホワイトデーを作ったの?
見返りイベントまで企画していただいて。

企画して誰かが利を得ている。
感動を得られた人たちの裏で、ビジネスが渦巻いている。
結局は商売の上に踊らされているだけ、という図式が見え隠れして・・・。
仕掛け人はすごいな。

無関心

無関心。

大きな問題である。
何が問題かっていうと、無関心状態がというよりは無関心である自分に気がつかないのが問題である。
または意図的に無関心にすることである。
見て見ぬふりをする。

関わろうとしない。
関わることによって面倒なことになる。押しつけられる。責任を負わされる。
そういう心理が働いている。

自分が傷つきたくないと思えば、まずは自分から関わらないようにする。
そのような処世術を多くの人が身につけてしまい、人間関係がとても希薄になってしまった。
そうかと思えば、ネットで見ず知らずの人とつながったりして喜んだりする。

そう考えると、自分が好きな時に好きな人とかかわればそれで満足。
そういうことなのではないか。
合理的な生き方である。

無理しなくてもそこそこ生きていける時代。

低欲望社会における無関心。
守備範囲の狭い人が増殖中。
ロボットじゃないんだから。
自ら働きかけようじゃない。

いろんな生き方があっていい

夫婦別姓と再婚禁止期間の見直しで最高裁大法廷で審理されることになった。
小法廷から大法廷に移されるということは改正される見込みが高いということ。

世の中の多様な考え方や生き方を尊重する動きが活発化している。
非常にいいことだと思う。
そもそも結婚制度自体に何の意味があるのかを考えてみた方がいい。
法律で縛る意味があるのかどうか。
何も考えずに生きている人からすると面倒くさいことなのだろうが、いろんな生き方があってもいいわけで、国が何でもかんでも制約をつける必要はない。
日本はそろそろ男尊女卑的な思想を捨てる時期が来ている。
「女性に活躍の場を・・・」というのであれば、鎖をほどいてあげなくては何もできない。
だいたい、そういう発言自体が女性を下に見ているということではないか。
縛られていたい人は縛られたままにしとけばいい。
でも、自由に活動したい人がいるのなら自由にさせてあげるのが筋である。
下に見ていた女性に使われるのが嫌な男性の愚かな姿勢ということだ。

「こうあるべき」
ときどき自分も使ってしまうことがあるけど、自省しています。
井の中の蛙でいてはつまらない。
世の中は広いのであって、自分の生きている世界はとても小さいのだ。
だから、「そういう生き方もあるか・・・。」
「ああいう生き方もあるよね・・・。」
「自分はこうやって生きていこう・・・。」
そういう思考のプロセスが必要なのだと思う

Feb. 18

東京は外国人が増えた。
様々な言語が飛び交っていて、「日本も随分と変わったものだ。」と独り思う。
円安の影響が大きいということか。

英語が話せればもてはやされる時代はとっくに過ぎてしまった。
10数年前は自分は結構使い勝手のいい人間だったのではないか。
早く海外生活を経験してよかったと思ったものだ。
が、しかし・・・。
そんな自分も取り残されつつある。
なんと流れが速いのか。
台湾人や韓国人のように3・4ヶ国語くらいは話せないと世界を渡っていけない。

CP+で外国人と話した。
日本に長年暮らしている彼らは日本人をどう思っているか。
「日本はもはや先端を走っていない。」
「甘えている人が増えてしまった。」
そんな風に見ているのだ。

なんとなく生きている人。
深いことを考えずにいる人。
与えられたことだけで満足している人。

まずいよ。