日別アーカイブ: 2016年3月29日

Mar. 29

世間を騒がしている様々な問題について、善悪だけで裁く人が異様に多いような気がして心配になる。
「法の下に・・」「かつては・・・」とか、ある限定された範囲内での善悪でしか物事を捉えないのは違和感がある。

話はそれるが。
「社長はああ言えばこういう・・・」と批判的なことを言われたことがある。

当然ですよね。
寝ても覚めても会社のことを考え、頭の中はどうやったら社員と一緒に目的を達成できるのかが99%を占めている。
問題が起きたとしても「どうしたら解決できるか」を様々な角度からシミュレーションするではないか。
問題が起きていなくたって、「こういう問題が起きたら、こういう対処をしよう」とか何通りも思い描いているものだ。
その時には「法的にはどうの」とか「今までのやり方ではどうの」という枠を超えていないと、実際の場面ではジタバタするだけで解決のための判断が遅れてしまう。
「その時になったら考えよう」では遅いのだ。
それが責任の重さなのだと思う。
冷静な判断を下すためには、普段から考えいているか否かで大きく差がついてしまうものではなかろうか。

型どおりの善悪だけで裁く人は考えることを拒否しているように見える。
「私はそういうことは悪いと思っているから、そもそもそんなことはしない」
ふむふむ・・・、そうかもしれません。
でもそこには、「自分だったらどう対処するかな」という当事者意識が欠けてはいないだろうか。
考えない人は自ずと選択肢が少なくなる。
引き出しも少ない。
議論しても広がりがない。

「そういう考え方もあるか・・・」というのが大事に思えないだろうか。
マニュアル化された人生。
そんな風に思えてしまって・・・・。

「ああ言えば上祐」と言われるだけ、あの人は深く物事を考えているのだと思う。
そうでなきゃ、あんな立ち振る舞いはできない。

世界は広いのだ。
いろんな視点からものを見れるようになりたいし、そこからいろんなものを学びたい。