昨日のつづき。
日本というのは空気に左右されるところがあるので、KYという言葉もできたのだと思います。
画一的な教育の結果だと思うのですが、「和」が重視されるので「個」が埋没しがちです。
「和」が決して悪いということを言っているのではありません。
なにかを変えようと思ったときには大きな障害となります。
常に変化していきたい、変化させたいと思っているような自分にとってはやりにくいんですよね。
変化を好まない人はたくさんいます。
大阪都構想もそうです。
なにかを変えると問題だって起きます。必ず。
でも、良くしていけばいいじゃないですか。
よりよくするために変えるんですから。
あとですね。
「和」のよくないところは、責任の所在が曖昧になることです。
「こうなったのはみんなの責任だ」ということにしておけば、なんとなくその場はやり過ごせます。
一人ひとりの責任が薄まるので、解決した気にもなります。
でもですね。
「みんなで」というのはよさそうな気もするんですけど、抜本的な変革は起こせません。
みんなの責任で、みんなの総意でというのは無責任と同じなんですよ。
ぼやけた目的に向かって、曖昧な目標を設定することになるので。
責任を取る人が明確になれば、目的も目標も明確になります。ならざるを得ません。
そういうもんです。
大阪都構想はもうだめなのだろうか。
これでは道州制もできないということになってしまう。
変わっていくことはもはや無理なのだろうか。