あるべき姿とは

長野県内での教員不祥事が問題となっている。
私は「教員の不祥事」が問題だとは思っていない。
だって、一般社会では普通に事故や事件が起きる。
それが誰かだった、ということ。
プライベートでおきたことは自己責任。本人の問題。
校長や教育長が謝罪するなんておかしくないだろうか。
職務上でおきた不祥事であれば、職場の管理責任が問われるべきこと。
今朝も信毎に記事になっていた。
教育委員会や県はすぐに「研修をしましょう」となる。
研修をしたところで問題解決に向かうのだろうか。
だいたい研修といっても肩書のある先生を呼んできて講義を聞いたり、意識調査をするくらいのものだろう。
本当に意味があるのだろうか。

本質はどこにあるのか。
きちんと精査したほうがいい。

聖職といわれる認識をまず取っ払うことから始めたほうがいいような。
「先生」とはそもそも何なのか。
教える子たちより先に生まれ、いろんなことを知っているから先生なのではないのか。
ただそれだけのことで、「先生=人格者」的なイメージをもつこと自体に無理がある。
そのイメージを維持することに一生懸命になっていないか。

この多様化した世の中では求められることが多い。
社会経験の薄い集団がそれに対応できるのか、いささか疑問だ。
私自身も30過ぎてから教員を辞めてはじめて世の中を知った。
井の中の蛙だったのだ。

学校も世の中に対応して、多様な考え方・経験をしている人と関わったほうがいい。
世間に対してもアピールしてもいい。
「教員のあり方を変えます。特別、偉いわけでもないし、皆さんと同じ普通の人です」と。
「教員だから素晴らしくなくてはいけない」ではなく、「教員も一般人です。ただ、教え方がうまい人なんです。」となるほうが自然だ。
そうやってもっと開放的な雰囲気の方が時代にマッチする。

先生方とお話しする機会があった。
これからの将来を担う子供たちに、自分なりのアプローチができたら嬉しい。
お互いに歩み寄れたら、きっと新しい何かが生まれるような気がする。