スポーツと体罰

大津市の中学生の自殺や女子柔道の指導法に関する問題が世の中を騒がしている。
体罰をめぐる問題がクローズアップされる中、文科省が指針を出した。
役所にしては対応が早いというべきか、自らの保身のための動きなのか。
今後の日本の向かう方向によって、教育の在り方は変わってくると思う。
北欧に代表されるような考える教育を重視していくのか。韓国のように猛烈な詰め込み教育をしていくのか。

これからは大きな集合体から、個を重視する時代になると思う。
今まで自分たちが受けてきた画一的な教育というのは小さなメモリーカードに全て入ってしまうものだ。
人間が成長する過程で最低限知っていなくてはならない知識というのはあるけれど、”みんな一緒に”という時代は終わったのではないか。
知りたければいつでも世界とつながって情報を入手することはできるし、小さなチップに教科書の内容は全て入ってしまうのだから。

北欧では教師を「teacher」ではなく「facilitator」という。教えるのでなく、”教わりたいと思っている人のお手伝いをする”という立場だ。だから、”教えてやる”という上から目線も発生しないし、日本の一種特有の主従関係というものも存在しない。
国境というものが存在しなくなるこれからの時代は、個の自由な発想が生きていく上で重要になると思う。
そんな時代には「facilitator」という存在が必要ではないかと考えている。

スポーツで体罰問題がクローズアップされている。
「sport」の語源はラテン語の「deportare」といわれる。
本来は「楽しむ」という意味を含んでいる。
「楽しむ」ということは目的を伴うから”have fun”ではなく”enjoy”ということになるか。
目的があるから人は能動的に取り組む。好きだから、楽しいから。受け身ということはない。
日本では本来の「楽しむ」という意味をスポーツの中に求めてこなかった。
海外から多種多様なスポーツが入ってきたときに、古来の武道と同じく”教育的価値がありそうだ”とか”修行”という捉え方をしてしまった。
教育という概念を持ち込んだがために、この体罰というものが横行してしまったのではないか。
「教育の一環として・・・」という言葉が出るように。

今の部活動は時代遅れだ。
やりたいことをやりたい場所でやりたい人たちとやるのがいい。
それは学校である必要はないし、ましてや成績をつける人が指導するものなのか。

高校時代、アメリカで過ごした。部活動はあったけれど、シーズン制になっていて、しかもセレクションがあった。
それに合格しないと参加できないのだ。
セレクションに落ちた人はその道に可能性は無いと早々に見切りをつけ、自分の得意なこと、本当にやりたいことは何なのかを見つめ直さなくてはならない。
そういう人たちは学校外に活動の場を求め、同じ目的をもった人たちと出会い、そこで交友関係を広めていく。
だから、生活の場が必然的に大きくなるし、多様な考えをもった人たちに出会って自身の視野も広がっていく。

セレクションに合格し、いざ練習が始まるが、日本とは全く違っていた。
目的が明確な人たちが集まっているし、セレクションを通過しているから競技力の高い人たちしかいない。
レベルが高いから競争も激しく、個々の目標も短い期間でリセットされ、更なるレベルアップにつながる。
日本の場合は組織の平均点を上げることに主眼が置かれる傾向があり、競技力の高い人は組織のレベルに配慮することを求められる。本来なら素晴らしい選手になるはずの人が、目的や目標を見失ってその競技から去っていく姿を何度も目撃した。
セレクションで不合格だった人の中には、その競技には参加できなくてもトレーナーなど裏方のサポート役になって活躍するものもいた。
あとは指導者が明確な方針を出すだけで、組織が動いていく。
やるかやらないかは本人次第。選択肢の数と大きさが全く異なっていた。

日本に比べると海外は早い段階で自分の人生について考えさせられる機会が訪れるのだ。

スポーツには教育的な価値はあるけれど、教育そのものではないし、本来の意味を考える必要があり、教育とは切り離しておかなくてはならないと思う。

日本もようやく避けてきた壁から逃げられなくなり、それを乗り越えなくてはならない時期に来ている。