Mar. 23

常識とは一体なにか。

多くの皆さんが承知しているとおり、わたくしはあまのじゃく的性格であります。
いつでも少数派に属してきました。
独りのときもよくありました。
でも、それは生来というより、実は意識的にそうしてきた部分が多い。

特に日本では大勢に乗っかっていることを良しとする傾向が強い。
少数派はいつでもどこでも完全アウェイ。向かい風ビュービューです。
でも、そんな自分も後ろを振り返ると風除けでわたくしを使っている人がたくさんいたりしたものです。
じゃあ、そういう人たちのためにも盾にならなくてはならない。
そんな変な義務感が生まれてしまったのです。

いつも疑問に思うんです。
「みんなと一緒でなくてはならないのだろうか」
「みんなと同じことが自分の本当の望みなのだろうか」
「みんなが常識だと言っていることは、本当に常識なのだろうか」
自分に問いかけると、どうしてもモヤモヤ感がぬぐえない。
だから、あえて大多数と反対の立場をとることによって、自分の内面の気もちや本来あるべき姿を引き出すようにしてきました。

わたくし、アメリカかぶれなんですけど。
なぜって、理由の一つとして褒められることがあげられます。
「自分の意見をもっていていい」と。
「日本人らしくなくていい」と。
彼らにとっては、善悪、正否はあまり重要ではなく「どう思うか」「どう考えるか」を大切にするんですね。
善悪も正否も大事なんですけど、一番ではない。
意見が食い違って口論になっても、後はさっぱり。
「考え方は違うけど、あいつはあいつなりの考えがある・・」って感じなんです。
相手を尊重するベースがあるといいますか。
日本みたいに「あいつとはもう口をきかない」となることはあまりない。

常識の名のもとに語られる善悪や正否というのは氷山の一角に過ぎない。
ある組織や社会には通じるもので、場所も時間も変われば通用しなくなるもの。
SNSの発達で、誰かが何かを発信すれば「あれはよくない」「間違いだ」「非常識だ」と批判の嵐が巻き起こったりする。
でもね・・・。
個人の好き嫌いの話が善悪で語られすぎている気がするのです。
見えている氷山の下には個人個人の好き嫌いが大きく存在すると思いませんか?

「正義を振りかざしていますけど、それってあなたの好き嫌いの問題でしょう?」
と言いたくなるのはしばしば。

常識、非常識というのは実に曖昧なもので、思い込みに過ぎないのではないでしょうか。
大事なことは真実の追求であって、それをどう思うかではないかと思ったりします。

ビジネス書には必ず書いてあります。
「まずは常識を疑え」って。
人間なんて言うこと成すこと矛盾だらけです。
人間は面白い動物です。

人をより深く理解することをモットーとして生きております。
では。