Mar. 3

日本というのは世界を見渡せば均一的、均質的な社会であると思う。

何をもって平等というかは様々な見解があろう。

いちおう「平等」という名のもとに、みんな同じような教育を受け、みんなが同じであることが尊ばれている。

それは良いことではある。

だが、弊害も生まれているように感じる。

少しでも同質ではないとみなされると、「ちょっと違う」という理由で仲間外れにしたり、攻撃したり、変な目で見たりする雰囲気が生まれる。

これは日本に限ったことではなく、大なり小なり強固なコミュニティーが形成されている場所では同じことが起こるのだが。

一致団結している組織では異質なものが入ってくると、その連帯感を守るべく排他的になるのだ。

東京で生まれ育ち海外でも生活してたから、その経験から現状の生活や仕事に生かせるものは取り入れたいといつも思っている。

「こういう仕組みにしたらもっと効率がいいのではないか」

「こんなやり方をしたら個人の負担は減るのではないか」

「そもそもこれって面白くない?やってみよう!」

提案しても受け入れられないことのほうが多い。

村八分は当たり前。

「いいですね・・・」とは言っても、社交辞令で本心で関わろうという人はほとんどいない。

住んでいる場所でも仕事でも保守的な考えが根強くて変えたがらない人がどれだけ多いことか。

新しい考え方の人と関わると面倒なようだ。

日本では天才がなかなか活躍できない。

異質だからである。

日本人のノーベル賞受賞者の多くはアメリカで研究している。

スポーツ選手や芸術家も海外で認められて逆輸入というパターン。

海外に行くと異質なものに対する許容量が大きいので活躍の場が広がるのだ。

日本人と仕事をしたことのある外国人からは、わたくしは珍しがられる。

「日本人らしくないね、君は」と何十回となく言われてきた。(いい意味だと受け止めていますけど)

世の中はひろく、ありのままの自分を受け入れてくれる場所があると知ることができたことはとてもよかった。

 

均質的な組織の排他性。

これは障がい者の生活にも当てはまる。

障害者の方々の社会参加をライフワークの一つにしているわたくしにとって、思った以上に大きなハードルである。

10年取り組んできたけど、なかなかうまくいかない。

結局、無理なのだろうかと雨に霞む仙丈ケ岳を見つめる。