Apr. 4

今日は4月4日。
オカマの節句。
こんなこと書くのはちょっと恥ずかしいのですが、オカマさんなどのマイノリティー系の方々からは支持を得られることが多く、大事な存在であります。
ただ、誤解の無いように。
わたくしはオカマではありません。
いったい何を書いているのでしょう・・・。

稀勢の里の強行出場で優勝という多くの人が感動した先場所。
その是非について、さまざまな議論が沸き起こっているようだ。

「本人が納得していればそれでいい」
というのがわたくしの考え。
まわりの人間がとやかく言う問題ではないと思っている。
そのかわり、本人は後悔を口にしたり、誰かのせいにしてはいけない。
「これが俺の人生」
と誰にも口をはさむ余地のない対応が求められる。

ただ、日本的な美談で終わってもいけないし、教育的見地から見ればまわりの大人の発言は気をつけた方がいい。
そういう意味ではさまざまな角度から議論が起こるのは良いことではある。

考えなくてはならないのは、その美談が暴走してアスリートが若くして選手生命を終わらせてしまうという悪循環に肯定的な雰囲気ができてしまうこと。
高校野球では、あの真夏に連投に次ぐ連投で選手生命を縮めている。

確かにすがすがしいし、見ていて感動する。
でも、観戦する大人達が感動を求めており、その需要を満たすためにビジネスに乗せてしまう。
冷静に考えれば、あの真夏の炎天下で体を酷使していいものなのか。
各都道府県の代表があの過密日程で競うのが妥当なのか。
大人の事情ばかりではないか。
本人達はたくさんの声援を受け、それに応えようと必死だ。
考える余地もない。
選手生命を縮めてしまった選手は、後の人生で納得しているだろうか。
大いに疑問である。

稀勢の里の今回の強行出場で多くの人が感動し涙を流した。
その一方で勘違いした大人が若者に同じ感動を求める。
押しつける。
知らないうちに当たり前の風潮が形成される。
誰も疑問に思わない。

だからこそ考えよう。

「俺、明日は投げない。監督が投げろといっても断る。スポーツ紙に『生意気な高校生』と書かれても投げない。このあとの人生の方が長いんで・・」
夏の甲子園大会で、こんなふうに空気を全く読まない高校生が現われてくれたら大絶賛したい。

こんな経験は二度とできないかもしれない。
もしかしたら明日死ぬかもしれない。
そう思えば、いまを大事にしたくなるもの。
それはわかる。
だからといって、選択するのは本人であって、ほかの誰でもない。
誰かに選択肢を委ねたとして、その人が責任を負ってくれるだろうか。
そんなはずはなく「選んだのはあなた」と言われるのが落ちである。

我々の人生は秒単位で選択の連続である。
過去はどうしようもないわけで、「これからどうするのか」が重要である。
残された時間が少なくなってきたからこそ、どう人生を終わらせるかを考える機会が増えた。
若者たちには大人の尺度に屈することなく自由に人生を選択してほしいと思う。

終わりを迎えたときに「これが俺の人生。やることはやった。」と回想しながら逝きたい。

オカマの話に始まり、人生について語って終わる。
守備範囲が広すぎた。