May 29

運動会に行ってまいりました。

児童・生徒として参加する運動会。
親として参加する運動会。
わたくしの場合は教職としての運動会も経験しました。

子どもたちが整然と整列したり走っている姿を見ると、それはそれで感動したりするのだけれど。
「なぜ?」というところに視点を置くと、しっくりこないことも見えてきたりする。

家族をはじめ多くの人が交流し、親睦を深める良い機会である。
行事を通じて社会生活を育むことは良いことである。

それをわかった上で考えてみたのだけれど、このような「与えられたイベント」がなければどうなるのだろう?
何が言いたいかというと、楽だからただ乗っかっているだけじゃないかと。
主体性をもって社会とかかわっているかという疑問。
例えば、このような学校行事がなくなったら、みんなどうするだろう。
実は一番困るのは学校の先生である。
指導力のない先生は特に困るだろう。
学校行事というのは一年という区切りの中で短期的目標を達成することに大きな意味を持たせている。
料理で言えば、スパイスのような役目を果たしている。
スパイスが効きすぎて、本来の料理の味がしなくなるといいますか。
学校行事がなくなったら、授業にごまかしがきかない。
授業の密度の濃さが問われるので、指導力のない先生は晒し者となる。
行事のための練習と称して授業は特別編成が組まれ、落ち着いて学習に取り組む時間がそがれる。
テキトーな授業をやっていても許される。

塾の存在がいいか悪いかは置いといて。
塾の先生の授業は面白い(場合がおおい)。
先生も生徒も目的を共有しているので、進む方向が単純明快。
生徒が「この先生はおもろくない。成績も上がらないだろう」となれば、他の塾へ行ってしまう。
これは、先生の死活問題となる。
常に競争にさらされており、下手したら淘汰されるのだから必死である。
いかにわかりやすく、面白く授業をするか工夫に工夫を重ねることになる。
それに比べて、学校の先生は・・・言わずもがなである。

「学校の先生の負担が・・・・」といって長時間労働が問題となっている。
「じゃ、行事をやめれば」とアドバイスしてあげましょう。

結局、先生も保護者も行事に頼る。
やめられない。
利害が一致しているというか。
楽なんですよ。
今までどおりに乗っかっていれば。

保護者も学校に多くを求めてはいけない。
子供たちの成長している姿を学校でない場所で見るような努力も必要だ。
イベントがあると楽なのは確か。
孫の顔を見たいおじいちゃんやおばあちゃんもいる。
そういう機会としてはとてもよさそうに思える。
場を提供してくれているわけだから。
だけど、与えられたものにただ乗っかっているだけでいいのか。
日本人はもっと個人が主体性を持って行動する機会を持ったほうがよいのではないか。

運動会に関する提案。
任意参加にする。
競技に出たい人だけが出る。
参加者が減る可能性が高いので、学校対抗の運動競技会にする。
競技に出ない生徒は必ず応援に参加する。
こんなんでいいじゃないでしょうか。
運動の得意な子の晴れ舞台は残しておきましょう。
練習は基本的に個人任せ。
もしくは体育の授業のみなので、他の授業にまったく支障なし。
応援練習は休み時間と放課後のみ。
いかがでしょうか。

(断っておきますが、運動会に嫌な思い出があるわけではありません。
わたくしのためにある行事といっても過言ではございません。)