Nov. 2

【耕論】みんな悪い、の構図――連帯責任のニッポンを考える

さまざまな組織で起こっている問題に対する連帯責任について議論されている。
海外で生活すると自己責任で片付くことが多いので、問題が発生した時の対処の仕方については文化の違いを感じることがあります。

かつて同じグループだったというだけで、その一員が謝罪するなんてことがあります。
その行動を「神対応」と讃えたり、無言を貫いていたら批判されたり、外野席(SNS)の批評批判にはホント疲れますね。
とにかく情報が入ってこないようにシャットアウトする生活が一番です。

日本では学校でも会社でも連帯責任を経験したことがない人はいないでしょう。
非常に頻度が高いと思います。
競争や勝ち負けの存在する場面ではいつでも起こります。
わたくしも嫌というほど経験してきました。
「あいつのミスで負けたのに、なんで俺も罰ゲームを受けなきゃいけないんだ・・」と納得できずにいたことも多々ありました。
ただ、自分のせいで負けたことだって当然ありますので、そのときにみんながどう思っているのかとても気になりました。

連帯責任は責任の所在を曖昧にするので、日本人が好むやり方です。
組織が崩壊しないようにするための一つの策であると思います。
個人に責任が及んでその人を排除するというやり方は、稲作で定住する日本人にはなじまなかったということです。
それなのに面白いなと思うのは、ネットの発達で完膚なきまでに叩きのめす風潮がはびこっています。
新参者が入ってくると最初から排除するムラ社会もなくなりません。
これは長野県に移住して、現在進行形で経験しております。
異物は排除するという思考。

どうしてこういうことが起こるのかというと、脳科学的にはある程度証明されているようです。
中野信子さんの本でも紹介されておりました。
稲作と麦作では地域によってホルモン分泌に差が出ているそうなのです。
狩猟民族と農耕民族では思考が違うと言われた時期がありまして、それを根拠がないとして否定する方も最近は多かったのですが、生計の立て方や民族によって違いがあることが証明されております。

欧米では個人があって集団があるという考え方が主流ですので、連帯責任という考え方は弱いです。
ただ、弱いだけであって全くないわけではありません。
責任の所在を明確にするというところが契約社会に繋がっていると言ってよいかもしれません。

個人的には連帯責任という考えは好きではありません。
ただ、否定はできない。
実際に責任を負わせたり負ったりする行為が好きではないのです。
「感じる」ことは必要ではないかと思います。

ラグビーというスポーツでいろんな経験をしてきました。
誰かの決定的なミスで負けた。
「アイツのせいで・・・」とみんな思う。
本人は「オレのせいで・・・」と思う。
そういう状況の中で、「自分が事前のこんな動きをしていれば・・・、あんな動きをしていれば・・・、アイツはミスをしなかったかもしれない」
本人以外のチームメート一人ひとりがそんなふうに思いを巡らせる。
こういうチームは絶対に強くなる。
そういう思考ができる選手は同じミスが繰り返されないように自己鍛錬するし、ユニット練習においてもミスを未然に回避する練習を組入れるはずです。
一人ひとりが当事者意識をもつ。
それが重要なんだと思うんです。
強いチームというのは、全体にそういう雰囲気が漂うものなのです。

わたくしが今のこの会社に入ったころ、ある部署で起きた問題に対して他の部署の人が「わたしには関係ない」と発言する人が何人もいました。
アンビリーバボーでした。
同じ会社で同じ目標に向かっている仲間に「関係ない」という考えの人がいる。
アンアクセプタボーです。
「自分だったらこうする」
「自分には何ができるだろう」
組織が進む方向にメンバーの顔も体が向いていなくてはなりません。
そうでなければ荒波を乗り越えることなんてできません。

連帯責任についてはいろんな意見があると思います。
小さな島国の小さなコミュニティーにいると近視眼的になります。
やはり、大きな世界に出ていきたい。
良し悪し、損得で考えることではないと思います。
いろんな考え方の人がいて、いろんな価値観があって。
みんなそれぞれの環境で折り合いをつけて生きている。

個の時代に連帯責任のあり方が問われている。
横並び思想からどう脱却していくのか。
みんなで考える必要があります。